しのうしのブログ

たまに外出

《十勝28》 廃校・廃線 広尾線④ <大樹=広尾-音調津> (6/6)

廃校 音調津小中学校旧音調津小中学校音調津小学校鉱山分校 
駅逓 音調津駅逓 

《十勝28-6》 廃校・廃線 広尾線④ <音調津-ビタタヌンケ> 

音調津小中学校広尾町音調津)


国道336号線から道道1071号へ、郵便局の所を曲がり、坂を登って行きます。校舎は残っているようです。左の木製校門は中学校。右の校門は小学校。中学校校門の右側はなくなっているようです。


小学校の方へ進んで行くと、1976年第70回卒業生の卒業記念。


閉校記念で復元された旧校門、その先の左に小学校中学校両校の閉校の碑があります。


生徒昇降口とその右のグランド跡。
音調津小学校は1894年音調津簡易教育所として開校。1964年当地に移転。2007年広尾小学校と統合しました。

中学校校門の先にある校舎。
併置の音調津中学校は1947年開校、2007年広尾中学校と統合しました。

旧音調津小中学校跡広尾町音調津)


右奥に見える音調津神社の隣です。1964年まではここだと思われます。音調津総合センターはグランド跡に建っているようです。校舎は左だったのでしょうか。
音調津小学校跡から少しの上りですが、北側の集落から見ると、高いところになります。

音調津駅逓広尾町音調津)


音調津小中学校跡から国道へ戻る途中、左手やや奥に標柱があります。1900年の開駅で1936年に廃止。広尾まで3里。取扱人は初代飯田千蔵氏、二代目吉田熊吉氏。

音調津川・・・音調津(おしらべつ)のところで太平洋に注ぐ川です。伊能、ヲシランヘ。松浦、ヲシラベツ。上原、オシラリウンペ「満潮の時潮が入る処」。永田、o-sirar-un-pe「磯多き処」。山田、o-sirar-pet「川尻に・岩がある・川」。山田、o-sirar-un-pet「川尻に・岩・がある・川」のようです。
かつて、広尾・音調津間の黄金道路マラソン大会がありました。1度だけ参加しました。

音調津小学校鉱山分校広尾町


1948年開校。日本炭素鉱業の鉱山が1949年に閉鎖のため閉校しました。場所はわかりません。音調津から、右奥へ向かう舗装道路が美幌川への道、左の道が音調津川上流への道です。


ある時、鉱物標本を見ていると、標本のグラファイトの産地が音調津ということで鉱山を知りました。その後、見学会があり、鉱山跡へ行く予定だったのですが、所用で行けなくなりました。行かなかったので鉱山の場所はわかりません。お土産に、はんれい岩にグラファイトの粒の入った岩石をいただきました。その岩石の写真です。

重蔵隧道広尾町ルベシベツ)


旧道の重蔵トンネル入口横に近藤重蔵道路開削記念碑があります。東蝦新道記が刻まれているようです。


ルベシベツ川をさかのぼり、ビタタヌンケまでの山道を開削しました。大漁橋の横に近藤重蔵山道開削口の標柱があります。
ru-pes-pet(山を越えて向こう側の土地へ降りて行く道がある川)とすると、昔から交通路だったのかもしれません。

トモチクシ広尾町タンネソ)

タンネソとビタタヌンケ間にある岩岬です。tom-ci-kus-iで「中腹(断崖)・我ら・通る・所」、だそうです。


2015年の写真を見つけました。日高変成帯の花こう岩の観察だったと思います。宝浜第1覆道の上からです。中央で人の集まっている所の古い崩れたトンネルは1892年のトモチクシ隧道。舟を引き上げるところにある塞がれたトンネルは1934年の第九号隧道だと思われます。右は宝浜トンネル。
昔から難所だったことが想像されます。ここは現在、長い新宝浜トンネル(2438m)で通り抜けます。

ビタタヌンケ川・・・太平洋に注ぐ川で、十勝と日高の境です。


国道には日勝橋が架かっています。橋の向こう側が日高管内


この道がルベシベツへの山道だったようです。左にビタタヌンケ川があります。登り口に近藤重蔵山道開削口の標柱があります。
ビタタヌンケの意味はわからないようです。永田、pi-tata-nunkep「宝物ヲ与ヘタル処」。秦、ヒタヽヌンゲ「濡るる・撰事」。上原、ビタヽヌンケ「波の碎る」。松浦、ビタタヌンケ「解く・撰む」。更科、「川波の立つ川」。ピタルランケプ「小石川原・下方にある・もの」、などがあります。

近藤重蔵の山道開削のことは十勝神社に「東蝦新道記」として残っています。新広尾町史資料を基にして、勉強のつもりで打ってみました。太字の書き下し文と( )の一部は資料の引用です。( )は注、( )内がカタカナのものは地名。

蝦夷東北ノ徼(きょう。国ざかい)射麻兒(シャマニ、様似)ヨリ尾朗(ビロウ、広尾)ニ至ル海岸ノ嶮(けん)ヲ渉(わた)ル、鞆筑子(トモチクシ)黽内(ピンナイ)ノ若キハ巉巌(ざんがん。険しい岩山)絶壁登降趦趄(しそ。行き悩み進まない)、蟹歩(かいほ)、螺躍(らやく)、蟻附(ぎふ)、猿攀(えんばん)誤テ一歩ヲ失スレバ則チ韲粉(せいふん。粉々になること)スルニ非ザレバ必ズ魚腹(ぎょふく。水死する)、夷族ノ此ノ嶮間ニ死スルモノ亦有之(これあり)、江戸ノ輶軒使(ゆうけんし。幕府の使者)近藤君一タビ此嶮ヲ徑(わたる)、新タニ道ヲ山ニ開カムトスルノ意有リ、後恵登呂府(エトロフ)ヨリ安帰ノ日、風雨阻(はば)ミ道路塞ガリ濡滞(じゅたい。とどまり滞る)数日。
是ニ於テ慨然発憤
(がいぜんはっぷん。憤り、心を奮い立たせる)シ通詞某及ビ夷族ト商議(しょうぎ。協議する)シ出資散財(費用を与える)、留辺志別(ルベシベツ)ヨリ水ヲ遡リ、神芟留(カムカルル)ニ至リ針ヲ按(あん。(方角を)調べ考える)ジ南ノ流ニ沿ヒテ下リ、鐚田奴月(ビタタヌンケ)ニ出ズ登降凡ソ三里、而シテ近ク木ヲ伐リ流ニ架シテ橋トナシ石ヲ碎キ谷ニ投ジテ梯(はしご)ト為セバ行路初メテ兌(とおり)、跋渉(ばっしょう。行路の困難なさま)危キコト無シ人夷(じんい)之ニ頼ル、是江戸ノ余沢夷族ニ波及シ、而シテ近藤君人ヲ思ヒ夷ヲ思フノ陰徳(いんとく。隠れたよい行い)ノ為ス所以ナリ、余其ノ事ニ與(あずか)リシ姓名ヲ記シ刀勝神祠(とかちじんし)ニ掲グ』(以下略)