しのうしのブログ

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《十勝24》 廃校・廃線 美蔓台地方面 <然別-美蔓-中音更> (1/4)

・美蔓台地・中音更方面の廃校巡り。鉄分のないコースです。 

《十勝24-1》 廃校・廃線 美蔓台地方面 <然別-鎮錬> 

廃校 然別小学校旧然別小学校下音更中学校然別分校東士狩中学校万年中学校高倉小中学校鎮錬小学校旧鎮錬小学校 

然別小学校音更町然別北8線)


道道214号から北8線を少し東に入ります。校門の左、道路沿いに閉校記念碑と80周年記念碑「邂逅」があります。


校門を入ると、


希望の像と二宮像があったという土台(右)。


校舎があります。校舎は会社が使用しているようで、車が止まっていました。
然別小学校は1900年開校、1901年に然別簡易教育所。1913年に然別尋常小学校、1960年当地に新築移転。1995年鈴蘭小学校と統合しました。

下音更中学校然別分校・旧然別小学校音更町然別西7線3)


1936年から1960年まであった移転前の然別小学校の場所はこのあたりになります。西7線で集落北端だったそうです。3番地は送電線の下あたりです。南(右)側がグランドだったようです。
併置していた下音更中学校然別分校は1947年開校、1951年下音更中学校と統合しました。

然別川・・・十勝川の左岸支流です。永田、sikari-pet「奥無し川」。山田、si-kari-pet「自分を・回す・川」。sikari-pet「迂回する・川」。「回流する川」など。
かつて、然別川口部は然別村でした。1906年合併して音更村大字然別村になりました。同じ然別がついていても、下然別と上然別は元東士狩村です。後志の仁木にも然別があります。

東士狩中学校音更町東士狩西7線)


道道214号沿いです。道道239号との交差点の南。ここは現在の東士狩小学校です。東士狩中学校は、1947年東士狩小学校に併置で開校。1951年新設の万年中学校に統合しました。


現在の校門です。


その北50mほどの所に何も書いていない校門らしきものがあります。通用門でしょうか。
東士狩小学校は音更町の一部と鹿追町を占めていた旧東士狩村の名前を残しています。

万年中学校音更町万年基線9号)


東士狩小学校から然別川に架かる万年橋を渡り少し進みます。この入口の道の北(右)側に校舎があったようです。グランド跡は左。


入口の右に何かオブジェが見えます。1951年東士狩中学校、東士狩中学校高倉分校を統合してできました。1974年音更中学校と統合しました。
万年の地名は、1915年に万年橋が架けられたことによるそうです。

高倉小中学校音更町高倉西5線)


万年中学校の北の10号を西へ進み、高倉11号が曲がるあたり。グランド跡などが高倉の杜という公園になっています。


校門はありませんが、奥に建物があります。


体育館が残っているようです。


公園の道路沿いに閉校の像「想望」があります。高倉小学校は1919年高倉特別教授場として開校、1983年東士狩小学校と統合しました。併置していた東士狩中学校高倉分校は、1947年開校、1951年新設の万年中学校に統合しました。
1914年高倉定助を管理人として、高倉然別牧場ができたそうです。

鎮錬小学校音更町万年西1線)


道道239号沿いにあります。道路から階段を上がって行くと校門があります。


校門の後ろに閉校記念の碑があります。右奥のオブジェは鎮錬開拓100年記念碑です。


グランドの奥に校舎があります。現在は会社の事務所になっているようです。


閉校時の児童の名前でしょうか、四名の名が刻まれた碑があります。鎮錬(ちんねる)小学校は1916年鎮錬簡易教育所として開校。1954年当地に移転新築。1986年東士狩小学校と統合しました。

旧鎮錬小学校音更町万年西1線)


鎮錬小学校は1954年に閉校の場所に移転新築しました。それまでの場所は然別西1線10番地。鎮錬川の南側、鎮錬神社の北側だったようです。当時とは道が変化しているようですが、この畑のあたりのようです。鎮錬川を背にして南側、左奥の林は鎮錬神社です。

鎮錬川・・・然別川の右岸支流です。松浦、チンレリコマベツ。永田、chin-rerik-oma-p「獣皮を乾す彼方なる処?」。山田、cin-rerke-oma-p「獣皮乾し枠の・向こうの処・にある・もの(川)」、など。対岸にあたる然別川左岸に、パンケチン川、ペンケチン川があります。