しのうしのブログ

たまに外出

《日高2》 廃校・廃線 えりも町 <目黒-襟裳岬-幌泉> (2/3)

廃校 苫別小学校えりも岬中学校幌泉高校襟裳分教室 
学校 えりも岬小学校 
駅逓 山道沢出張所小越駅逓 

《日高2-2》 廃校・廃線 えりも町 <庶野-襟裳岬

ルーラン岩礁えりも町庶野)
日高山脈が海に沈むところというと襟裳岬を思い浮かべます。日高山脈の中核をなす日高変成帯が岩礁として露出しているところは、庶野の少し南、ルーラン~千平(ちびら)の海岸だそうです。日高変成帯の南限になるそうです。


そこの少し北、西庶野のバス停付近。海岸でトーナル岩などを観察したことがあります。写真は縞模様が見えるので、片麻岩風ですが、名前は忘れました。

▽庶野駅逓山道沢出張所(えりも町
1895年開設、1914年廃止。山道の名から推測して、猿留山道と関係がありそうです。江戸時代に、カルシコタンやアフツに小休所があったそうですが、駅逓の場所など詳細不明。

苫別小学校えりも町庶野)


道道34号を悲恋沼の近くから、北東へ入ります。交差点付近に北緯42度の碑と一字一石塔(写真)があります。


校舎はとまべつ憩いの湯ちゃっぷの所だったようです。
最初は戦前にあった種馬の畜舎を改築したそうです。


苫別小学校は、1946年襟裳国民学校苫別分教場として開校、1947年に苫別小学校。1961年に襟裳小学校苫別分校、1966年にえりも岬小学校苫別分校になりました。1987年えりも岬小学校と統合しました。


あまり使われていないような、えりも町ふれあいコミュニティセンターが横にありました。
建物の中から人にみられているような気がしましたが、校地内を探索。碑などを発見できませんでした。

えりも岬中学校えりも町えりも岬


道道34号沿です。ここはえりも岬小学校です。グランドの向こう側に小学校が見えます。
えりも岬中学校は、1947年幌泉中学校襟裳分校として併置で開校。1948年襟裳中学校となりました。1964年火災、校舎復旧。1971年えりも岬中学校と改称。1988年えりも中学校と統合しました。
1954年から1965年まで幌泉高校の襟裳分教場を併置していました。


1964年から1988年の小学校校舎完成までの校舎はグランドの南の所で、南の郵便局付近に入口があったようです。右の建物が郵便局です。


えりも岬小学校は1883年幌泉小学校小越分校として開校。1887年小越簡易小学校。1942年襟裳国民学校。1971年えりも岬小学校になりました。
1971年、町名改称のため、幌泉小・幌泉中がえりも小・えりも中と改称したので、襟裳小・襟裳中はえりも岬小・えりも岬中と改称しました。

幌泉高校襟裳分教場えりも町えりも岬


1954年から1965年まで幌泉高校(現・えりも高校)の襟裳分教場が中学校に併置されていました。
1964年の火災までの旧校舎は現校舎よりもグランド寄りだったようです。現小学校校門付近からグランド方面です。

小越駅逓


1916年から1936年まであったそうです。駅逓取扱人は柳田氏。同じ場所かはわかりませんが、現在もクリフハウス柳田旅館を営んでいます。

小越・・・永田、okusi「通行家」。更科、オ・クシ「そこを越す」。山田、o-kus-i「そこを・通る・所」。町史、オ・クシ・イ「そこで・向うへ渡る・所」。など。
旧小越(おごし)村は1906年合併して幌泉村大字小越村になりました。現在の東洋・えりも岬・庶野です。

襟裳岬えりも町えりも岬


ピリカノカになっています。えりも宝のツアーで先端付近の海岸へ行きました。昆布漁をしていました。
古くは岬の岩のいくつかに名前があったようです。先に見える岩は何と呼ばれていたのでしょうか。
襟裳はen-rum、「突き出た・頭」で「岬」のことだそうです。