しのうしのブログ

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《十勝20》 廃校・廃線 十勝鉄道① <帯広=戸蔦-八千代=基松> (6/6)

廃校 上帯広小学校上帯広中学校 
廃駅 (十勝鉄道)八千代駅上広野駅広野駅基松駅 
廃線 十勝鉄道(八千代線) 
学校 旧広野小中学校 

《十勝20-6》 廃校・廃線 十勝鉄道① <八千代=基松>

●(十勝鉄道)千代駅帯広市八千代町西2線29号)


1924年千代田駅として開設。八千代駅と改称しました。1957年廃止の駅です。29号の交差点の北、線路の西に駅があったようです。交差点の西(左手)に現在もある進藤林業は線路の西だったようで、その何軒か北に駅があったようです。


終点なので側線などいろいろなものがありました。そのためか八千代駅付近で西2線道路は東側に迂回していたそうです。正面に見える秋葉神社のこちら側です。今はジャガイモ畑になっていて痕跡はありません。


線路は29号の南へ、木材用に延びていたともいいます。十勝鉄道はここから西2線を北上していました。
千代田は山口千代太郎氏と田村直次郎氏にちなむそうです。

旧広野小中学校帯広市広野町西3線25号)


校舎跡には広野農業担い手センターと広野保育所ができています。道路のそばに大きなオブジェがあります。広野小学校は1908年特別教授場として開校、1915年に上帯広第三尋常小学校、1927年に広野尋常小学校なりました。1975年、拓成小学校・八千代小学校と統合して(新)広野小学校(西1線)になりました。
併置していた広野中学校は旧八千代中学校と統合し、1952年(新)広野中学校に、翌年改称して(新)八千代中学校になりました。


現在の広野小学校に1957年建立の移設した二宮像があります。来てみて思い出しましたが、この広野小学校には2回くらい来たことがあります。

●(十勝鉄道)広野駅帯広市広野町西2線)


1929年開設、1957年廃止の駅です。広野の市街地付近でしょうか。市街地には旧広野小中学校や郵便局などがありました。駅の場所はよくわかりません。広野駅と八千代駅のほぼ中間の位置のようです。

●(十勝鉄道)広野駅帯広市広野町西2線)


1924年開設、1957年廃止の駅です。20号と21号の間。今は畑の中で、どこにあったのかわかりません。駅舎は線路の東側にあったようです。写真は西2線の西側の畑です。


広野駅の北、19号と20号の間に日甜帯広農場の社宅があり、西2線の西側にビート積込み用の引込線があったそうです。今は畑しかありません。この後、十勝鉄道は、帯広川を渡り、芽室町の上帯広駅へ向かいます。
広野は広沢清市郎氏と野勢千代蔵氏、両氏から地名がついたそうです。

上帯広小学校帯広市上帯広町西1線)


帯広川の近くです。道道62号の少し南で上帯広の集落にあります。校舎はないようです。現在、障害者支援施設・光り園になっています。


入口の右側に閉校の碑と二宮像があります。1907年特別教授場として開校、1908年に上帯広第二簡易教育所、1912年に上帯広第二尋常小学校を経て、上帯広尋常高等小学校になりました。1979年(新)川西小学校と統合しました。1952年まで上帯広中学校を併置していました。

上帯広中学校帯広市上帯広町基線)


上帯広小学校から南東へ約800m。崩れそうになった校舎が残っています。写真の右端に二宮像の台座のみあります。


さらに右の方には中学校跡の標柱があります。校舎の向こう側にあった校庭は、畑になっています。1947年上帯広小学校に併置で開校、1952年独立校舎完成。1979年川西中学校と統合しました。

上帯広・・・売買川の左岸に上帯広村がありました。1915年合併して大正村大字上帯広村、1924年分村して川西村大字上帯広村になりました。現在の別府・基松・上帯広・広野・八千代、大空などです。

●(十勝鉄道)富士の支線帯広市富士町西5線20号)


藤駅から分岐した八千代線に支線が出ている地図を見たことがあります。線路があった時期はわかりません。その分岐点付近です。その地図では西5線20号付近で南(左)へ分岐して、25号くらいまで延びています。十勝鉄道八千代線は右の未舗装の20号をまっすぐ進み、売買川を渡り、基松駅へ向かいます。
戦時中、この先(西6線)で鉄鉱石を採ったことがあるそうです。この付近に、大正時代に富士小学校の前身上売買尋常小学校があったようです。


この分岐した線の終点付近の北向きです(西5線25号)。

●(十勝鉄道)基松駅帯広市基松町基線7号)


1926年開設、1957年廃止の駅です。正面の未舗装道路が7号で、基線を横切って十勝鉄道が通っていました。駅舎は線路の北側(右)にあったようです。藤駅から来た線路は基松駅を過ぎると、帯広川を渡って芽室町常盤駅に向かっていました。


駅の向かい側(南側)には集会場があったようです。線路の南側の土地を寄付した「松」浦高太郎氏と「基」線を組合せて基松(もといまつ)になったそうです。
この南基松会館は懐かしいです。ここまで約10㎞、マラソンでの折り返し地点でした。