しのうしのブログ

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《十勝30》《釧路3》廃校・廃線 十勝海岸 根室本線下り④ <浦幌=直別-大津-野塚> (5/10)

廃校 十勝小中学校豊北小中学校 

《十勝30-5》廃校・廃線 十勝海岸 根室本線下り④ <十勝太-大津> 

十勝太浦幌町十勝太)


官設鉄道釧路線が通る計画がありました。それに合わせて市街地が計画され、碁盤目状の道は名残でしょうか。実際は浦幌経由となったため、幻の都市計画になりました。
駅ができなかったので場所は分かりません。国道から少し入った所で見つけた、十勝太神社ではない鳥居。


中学生の時だったと思うのですが、十勝太のところで、十勝川河口を何人かで見たことがあります。そのときはコンクリートの塀みたいな所から見ていたと思います。今は流れが変わり、場所はわかりません。水面が穏やかだったので、海ではなかったはずです。河川改修で河口の位置は変化しているようです。
川の名前+太、はその川の河口部の地名です。十勝太は十勝川の河口部になります。

十勝川・・・十勝太で海に注ぐ川です。十勝の意味は諸説あり良くわかりません。
永田、tukapci「幽霊」。松浦、トウカプ・トカプ「乳」。秦、tokap-us-i「乳房・ある・所」。バチラー、tok-a-ci-mosiri「上方に広がる国」。上原、to-ka-p-ci「沼の辺り枯れる」。他に、tukari-pet「アザラシ・川」など。
河口付近に十勝村がありました。1906年合併して、大津村大字十勝村になりました。1955年浦幌町編入されました。今の直別・厚内・昆布刈石・十勝太・静内などです。

十勝小中学校浦幌町十勝太)


十勝太集落の少し西、国道336号線沿いにあります。校門があり、後ろの校地は草原のようになっています。


校門の先、グランドだったところに閉校の碑「学びやの里」があります。台座の後ろの沿革はうすくなっています。


その右に「懐古」という碑がありました。ここに十勝小学校があるので、かつて「トカチ」呼ばれていたのは、十勝太のあたりだったことになります。


左の門柱の後ろ、これはたぶん二宮像の台座。読みにくいですが昭和九年寄贈でしょうか。十勝小学校は十勝太教育所と1906年開校の鼈奴教育所が合併して1909年にできました。1990年浦幌小学校と統合しました。
併置の十勝中学校は1974年浦幌中学校と統合しました。

鼈奴・・・pet-carで「川の口」、つまり、川が別れる所の事だそうです。十勝川大津川が分かれる所。その付近の地名になります。漢字が難しいのですが、同音の地名は他所にもあります。
鼈奴(べっちゃろ)村がありました。1906年合併して大津村大字鼈奴村になりました。1955年大津村が分割されたため、浦幌町編入されました。今のベッチャロなどです。

トイトッキ浜トーチカ豊頃町打内)


国道336号線から海岸へ向かいます。稲荷神社の近くにあります。横に穴が見えます。


上部に空気穴でしょうか、2ヶ所穴が開いていました。もう一ヶ所の方は草が生えていました。(上の写真トーチカ上部左方)
トーチカは第二次世界大戦の時に作られた防衛用の陣地です。十勝海岸に数十基作られたようです。大樹方面には多数あり知られるようになりました。

豊北小中学校浦幌町トイトッキ)


国道336号線から三日月沼の方に少し入ります。校舎跡に豊北会館が建っています。


体育館が残っているようです。西(手前)側の林の中に閉校の碑があります。


閉校の碑「つよく かしこく たゆまず 自分から」、後ろは沿革です。豊北小学校は1950年大津村立豊北小学校として開校。1982年新養老小学校に統合しました。

1982年に児童8名が作った、外枠が煉瓦の閉校記念があったようです。壊れたのか(左)、見あたらないので、当時の形を浦幌町郷土博物館報告から写させていただきました(右)。
併置の豊北中学校は1956年開校、1974年浦幌中学校と統合しました。

浦幌町の廃校は全部登場したと思います。
厚内小学校、厚内中学校、幾千世小中学校、稲穂小学校、浦幌高等学校、浦幌炭鉱小学校、浦幌炭鉱中学校、浦幌炭鉱高等学校、活平小中学校、上厚内小学校、上浦幌小中学校、上常室小学校、川上小中学校、川流布小中学校、貴老路小学校、貴老路中学校、静内小学校、新養老小学校、瀬多来小中学校、直別小学校、十勝小中学校、常盤小学校、常室小中学校、豊北小中学校、養老小中学校、吉野小学校、吉野中学校、留真小中学校