しのうしのブログ

たまに外出

《十勝21》 廃校・廃線 池北線⑥ <塩幌=陸別-上足寄-オンネトー-螺湾> (5/5)

廃校 上螺湾小中学校螺湾中学校旧螺湾中学校長野小学校 
学校 旧螺湾小学校 
駅逓 螺湾駅逓 

《十勝21-5》 廃校・廃線 池北線⑥ <上螺湾-長野>

上螺湾小中学校足寄町上螺湾)


富士見小学校跡から道道664号を10㎞弱進み、北に少し入ります。右の坂を上がると木造の校舎が見えます。開口部が作られており、農家さんの資材置き場として使われていたようです。


しかし、その第二の役割も終えつつある感じです。上螺湾小学校は1915年私設教育所として開校、1916年上螺湾特別教授場になりました。1970年螺湾小学校と統合しました。
併置していた上螺湾中学校は1951年足寄(後の螺湾)中学校の分教場として開校、1954年上螺湾中学校になりました。1964年に螺湾中学校と統合しました。


裏側です、近づいて見なかったのですが、建物があったようです。

シオワッカ足寄町上螺湾126)


螺湾から約2㎞上ります、道道664号北側に駐車場があります。冷泉に含まれていた石灰分が再結晶し、石灰華ができたものです。季節によって炭酸カルシウムの多形、イカアイト(春)、モノハイドロカルサイト(夏)、ファテライト(冬)が形成されているそうです。

◆移転した螺湾中学校跡足寄町螺湾本町)


1960年代初めに行ったことがあったと思います。そのおぼろげな記憶では、螺湾市街地にあったと思います。足寄町史によると、現在の螺湾小学校のグランド。古い写真に、螺湾市街地の五差路の南の突きあたりに校舎のようなものが見えます。現在の螺湾小学校校舎の西で道路沿いに校舎があったようです。1966年に閉校時の新校舎に移転しました。

◆移転した螺湾小学校跡足寄町螺湾本町)


町史に螺湾集落センターとなっていますが、そこがよくわかりません。古い写真で、五差路の北東で学校のように見えるところでしょうか。そこだとすると、手前の建物から向こう側に新設された道路にかけて校舎だったようです。右側がグランド。螺湾小学校は、1908年螺湾特別教授場として開校、1970年に旧螺湾中学校跡に新校舎ができました。

螺湾中学校足寄町螺湾本町)


国道241号線にある らわん蕗の里 の所、螺湾中学校通を北に入ります。


進むと、少々間隔が広く感じられますが、校門があります。


グランド跡からです、校舎はありません。2002年に足寄中学校と統合しました。何度か校名が変わったようです。
1947足寄村の足寄中→1955(新)足寄町の螺湾中→(1965上螺湾中と統合)→1966新校舎→1968(上足寄中と統合)→足寄東中→(1972稲牛中統合)→1973(中足寄中統合)→螺湾中。

螺湾川化石掘足寄町螺湾本町)


足寄動物化石博物館の化石教室で来たことがあったと思います。螺湾小学校の南、螺湾川対岸だったと思います。貝の化石を探しました。
近くで川の流木に引っ掛かっている動物の死骸を見ました。自然の中で生きる厳しさを感じました。


その時はモラワンにも行ったので、場所の記憶が曖昧です。螺湾川から、束柱類のアショロア、ベヘモトプスやクジラ類のカズハヒゲクジラなどの化石が出ています。

螺湾駅逓足寄町螺湾)


螺湾から国道を1kmほど西へ進みます。国道の北側に碑があります。1910年から1938年まであったそうです。碑の文によると駅逓所は、碑のところよりも南にあったようです。

螺湾・・・松浦、ラワン。永田、ラニ「坂」。更科、ラ・アン・ペツ「葛の蔓ある川」。山田案、ラウ・アン「低い」。ラウ・オ・ワン「ずっと奥深く入っている川」、など。川の名でしょうか、聞き慣れた地名ですが、難しいです。

長野小学校足寄町長野)


螺湾からは国道を2kmほど西に進みます。道道621号に入り、約3.5km。農家さんの方に入ります。私道のような感じでしたが、昔は子供たちが通ったはずです。


50年以上前に閉校になった校舎が残っています。前日の雨でグランド跡はややぬかるみます。1922年長野特別教授場として開校、1935年長野尋常小学校になりました。1963年に新校舎。1970年螺湾小学校と統合しました。
1916年長野県北佐久郡から入植したそうです。

足寄町の廃校は全部登場したと思います。
愛冠小中学校、旭丘小中学校、足寄西中学校、阿寒硫黄鉱山小学校、稲牛小中学校、大誉地中学校、上足寄小中学校、上稲牛小学校、上大誉地小学校、上利別小学校、上利別中学校、上芽登小学校、上螺湾小中学校、喜登牛小中学校、白糸小中学校、鳥取小中学校、中足寄小中学校、長野小学校、西小学校、東小学校、富士見小学校、平和小学校、芽登中学校、茂足寄小学校、茂喜登牛小中学校、螺湾中学校、鷲府小中学校